見る・視る・観る
まえのページへ
ニュースのアナウンサーは事実を伝えるために、
原稿を淡々と読み上げるというのが昔のニュースでした。
しかし、最近は、事実を伝えるにも、演出をしているのではと感じることが多いのです。
ニュースの途中で、別のアナウンサーが声の調子を変え、
緊迫感を持たせたり、感情的表現で内容を伝えたりしています。
必要な情報を伝え、その判断は視聴者がすべきではないかというのがニュースに対する私の見解です。
少なくとも、NHKは国民の支払いで成り立っているのですから、
演出までしなくともいいのではないかと思うのですが。
一方、民放は厳しい視聴率争いです。
見て面白い、見続けてもらうことが生き残りのために必要です。
そして、スポンサーの意向に反するようであれば、スポンサーは番組から下りるし、
視聴率が上がらなければ番組から撤退することにもなります。
視聴者=消費者ですから、まずは面白おかしく見てもらい、
視聴者になってもらうことが必要条件なのです。
このため、評論家がコメンテーターと称して、ほぼ毎日顔を出し発言しています。
テレビを見てもらって、商品や企業のイメージを知ってもらい、そして購入してもらう。
兎に角、視聴者が番組に関心を持たない限りは、民放としての価値はないのです。
表で言う「言論の自由」とは裏腹に、まさに経済合理性の裏に潜むスポンサーという
「表現の不自由」があるのですと言ったら言い過ぎでしょうか。
見る側が選択性をもって情報を選ぶことができるのがテレビですが、
先にも述べたように、これらの情報には発信者の意思(意図?)が見え隠れすることです。
見て貰うために、司会者による誘導や、
関心を引きテレビに出演し続けなければならないコメンテーターが発するワイドショー的表現です。
テレビと同じように、週刊誌も買わせなければ経営が成り立たない。
これもまた買ってもらってなんぼの世界である。
新聞に掲載された週刊誌の宣伝は、
どうしても目に入り読まざるを得ないような過激な見出しに工夫されている。
本当にまあよくもここまで何のために?と言いたくなる見出しが多い。
これらの世界、一方的に、見てもらう「見せる化」のワイドショー化が進んでいるのです。
ところで、「みる」にはいろいろな漢字があります。
見る、観る、視る、診る、看ると、診ると看るは読んでの通りですが、
見る、観る、視るの使い方は少しずつニュアンスが違います。
ちなみに、見るは単にみる、視るは注視してよく視る、
観るは観察して実際をよく観るという意味合いです。
このような、ワイドショー化が進んでいる現実をみていると、
見ることから、視るあるいは観ることへと視聴者や読者もレベルアップすることが
求められていると思います。
何か出来事があると、町の人の意見を聞いてみましたとニュースが放映されますが、
意見はどのような手段で誰が選んだのか、
これらの意見、統計上はサンプリングした1〜2人の意見であって代表値ではないのです。
しかし、堂々と代表した意見のように放送されているのが現実で、観ることが求められるわけです。
安全の世界では、意識しないと見えないものを、
意識しないで誰にでも分かるようにするという「見える化」の取り組みがなされていますが、
ヒューマンエラー防止のツールとして「見える化」が有効です。
災害発生確率の高い危険個所などで、「見る」から「見える化」、
「意識して見る」から意識せずして目に入り誰もが気づく「見える化」を取り入れることです。
しかし、「見えた」だけでは効果は薄く、
見て貰って中に隠された意図が見た人に伝わることが本当の「見える化」です。
「見える化」の意図が分かってもらわなければ「見える化」がなされたとは言えないのです。
そういう意味では、マスメディアの「見せる化」戦略を逆手にとるのも
良いかもしれないと思うのです。
(こんな「見える化」もあります。
福山駅前の地下駐車場工事現場ですが、
区切りを不透明の板から透明のプラスチックにして工事現場を
「見える化」しています。
「見える化」により、工事の進み具合、3Sの状況、
仕事の仕方等が通行者にも分かります。)
|